沿革

奥州名所図会「八幡」(斎藤報恩会蔵)

江戸時代の伝承
 「塩松勝譜」「安永の風土記」によると、もともとこの地に地蔵堂があってその傍らに一峰和尚が瑞巌寺を隠居して庵を建てたのが始めらしい。古来を本松山、隣祥寺(後の宝国寺)を中松山、般若寺(今の八幡神社境内にあったが、明治の廃仏毀釈で廃寺となる)を末松山と称したという。

沼向古老の伝承
 昔、沼向全域が寺院で境内に地蔵堂と阿弥陀堂があって、八幡に移ったのがとなり、仙台市新寺小路に移ったのが阿弥陀寺となったという。どういう因縁か沼向の引地・菊田・引地家は古い家柄の上、すべての檀家なので、もともと深い関係にあったと見るべきであろう。因みに後述する中世の八幡氏全盛時代は「八幡の庄」といって岡田・蒲生・中野・八幡・高崎などを所領していたというから同じ領地と言うことになる。

1550年頃
 松島円福寺(後の瑞巌寺)91世一峰和尚、当山臨済宗中興開山。当初は円福寺同様建長寺派に属していたらしい。
 当時、まだ八幡氏が現在の郷古昭輝氏宅裏山から上水道タンクあたり(古館)に居館を構え、居住していたので、開基は伊達政宗により黒川から水沢に移封される直前の八幡景廉かと思われる。
 一峰和尚の年譜については瑞巌寺・双方に記録が全くない。しかし、天正年間(1573〜1592)に瑞巌寺93世実道和尚のときに巌寺が妙心寺派に転派したとされているので、その年代から類推した。
 元東北歴史資料館佐藤芳房氏(角田市寺住職)の鑑定によれば、ご本尊延命地蔵願王菩薩は、戦国時代から江戸初期にかけての作風であるということからも先の年代と一致する。さらに、佐藤氏によれば光背・蓮華台は仏師の作だが、ご本尊本体は近隣の彫刻家であろうとのこと。つまり、本来ご本尊本体も仏師によって作られたのだが、すぐに売られたか盗まれてしまったらしい。その証拠に光背の円光中心と白毫(額のほくろのようなもの)の位置はほぼ一致するはずなのに、5センチほど低い位置にある。つまり、もともとは今のご本尊様より一回り大きかったと推定される。江戸時代天保年間の過去帳に見る歴代の住職の遷化年代から、は開山されて間もなく荒廃し、ご本尊本体が消滅してしまったと考えられる。その原因は、大旦那の八幡氏が移封させられ、新たに天童氏が八幡の主になって、スポンサーを失ったからであろう。因みに、現在でも天童氏が八幡に居住する以前に八幡に住んでいたほとんどはの檀家であり、天童家とその家臣は宝国寺さんの檀家である。また、最近までこれらの家系相互に婚姻関係を持たなかったという事実もある。これは沼向引地家と菊田家の関係にも類似している。

 以下、江戸時代天保13年(1843)正道智謙代の過去帳に残る当山の歴代は次のようになる。

1代 一峰和尚禅師 (年代不詳)
2代 金牛祖琢首座 元和2年3月24日(1617)遷化
3代 壽山恵長 寛文9年3月(1670)遷化
4代 中興開山普峰祖鉄 元禄2年(1693)〜同9年6月25日(1701)遷化
5代 嶺岩恵弘 宝永元年(1709)遷化
6代 海印定珠首座 享保20年(1736)遷化
7代 光林恵珍 延享6年(1760)板書の縁起執筆者
8代 大宛宗慧 安永3年(1775)安永の風土記記述
9代 心渕宗休上座 文化4年(1808)2月24日遷化
10代 一翁正念上座 文政2年10月5日(1820)遷化
11代 当山1世 南叟守公坐元禅師 天保6年5月23日(1836)遷化
12代 正道智謙 安政6年8月15日(1860)遷化
13代 2世 旭州東元禅師 大正8年6月10日(1920)遷化
昭和4年前本堂竣工
14代 3世 玄峰寛道禅師 昭和18年〜平成7年
昭和24年 庫裡新築
昭和26年9月2日 本堂内で花園保育園(後の幼稚園)開園
昭和37〜38年 本堂修理
昭和48年 庫裡新築
この間、寛道和尚によって駐車場整備、幼稚園跡地を会館に改築
昭和61年 寛道和尚文部大臣賞受賞
15代 4世 旭峰俊昭禅師 現住 平成7年4月就任
平成9年6月 前本堂・会館・庫裡解体・地鎮祭
平成11年4月29日 現本堂・会館・庫裡落慶式
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